今宮祭 その3
- さて、今宮神社の氏子圏について。
東が堀川通、西は七本松通、南は二条城、北は不明確だがおおむね玄以通で、中心は西陣やととされとります。
地図で確認すると、えらい南北に細長いんどすな。
なんや不自然なような気がして…。
もとからやのうて、意図的に氏子圏を広げはった気がするんどすわ。
神社が儲かるゆう言い方は下世話どすけど、神社が栄えるかどうかは、氏子圏の経済力と、氏子圏以外の信奉者の経済力と数による…。
つまりはどんだけご寄進があるかどうか、ゆうことどすわ。
氏子圏が広い方が、お金は集まりますわな。
今宮祭を支えとったんは、西陣の経済力やとゆうてもええ思います。
さてさて、氏子圏の話をする前に、今宮神社の歴史と今宮祭の歴史もみていきまひょか。
今宮神社が祀られるようになったんは、平安時代以前やそうで、もともとは病や災いから守ってくれはる疫神・須佐之男命(スサノオノミコト)が祀られていたんやそうどす。
今宮祭の起源は、紫野御霊会やとされとりまして、紫野御霊会がどないなもんなんかについては、今宮神社はんのホームページを引用しますと…
一条天皇の御代正暦五年(994)六月、当社地の疫神を二基の神輿に齋いこめて船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪疫退散を祈った。
これが紫野御霊会であり今宮祭の起源である。
この歴史の古い今宮神社と今宮祭どすが、応仁の乱などで一時期はすたれます。
このすたれた神社の復興に一役買ったのが、桂昌院はんこと、八百屋のお玉はんどす。
桂昌院はんゆうのは、徳川三代将軍家光の側室になった人で、出身は八百屋といわれとります。
どこの八百屋かと申しますと、京都西陣、すなわち今宮神社の氏子圏やったんどすな。
せやから、今宮神社のことを別名「玉の輿神社」ともいうんどすわ。
そもそも玉の輿の語源は、この八百屋のお玉はんが将軍に見染められ、江戸まで輿に乗って嫁いだことからや…とゆう俗説もあるほどどす。
今宮神社の氏子圏が広がったのも、このお玉はんの仕業やった、もとい尽力によるものやったようどす。
玉の輿をめざしてはる方は、ぜひ今宮神社に詣でてみてください。
ご利益があると、ええどすなぁ。
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