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2020-02-12

廬山寺通りと廬山寺

おばんどす。ユウどす。

先日、節分会のもようをお伝えしました廬山寺。

御所の東、紫式部邸後に立ってるお寺どすけど、この廬山寺をかすりもしないとこに廬山寺通り※ゆうのんがあります。

(※ 東は大宮通から、西は平野の木辻通りまでの東西の通り)

何でなんやろ?思いますやろ?

そう。そうなんどす。

普通に考えたら、廬山寺はもともと違う場所にあったゆうことどすわな。

もともとは天慶元年(938年)、船岡山の南麓に創建された與願金剛院ゆうお寺が廬山寺の前身どす。

それから時代がくだって、寛元3年(1245年)出雲路に廬山寺ゆうお寺が建てられました。

南北朝時代、この二か寺の住持を兼務したはった明導照源ゆうお坊さんが、えいや!と二つのお寺をひとつにしはったんどす。

正確には與願金剛院に廬山寺が吸収合併されたんどすが、新たな寺院名は廬山寺、正式名称廬山天台講寺としはったんやそうで。

そん時は、まだ船岡山の南麓。

今の廬山寺通りは、船岡山の南に二つほどさがった通りなんで、このあたりに廬山寺があったんどすやろなぁ。

それが今の場所にうつったんは、豊臣秀吉がた京都のお寺を寺町に移していった時どすわ。

京都のお寺、由緒正しそうに見えますが、案外場所は動かされてたりします。

いや、由緒は正しいんで間違いはないんですが…。

本来の場所とは違うことがあります。

その代表が本能寺。

敵は本能寺にあり、ゆうてた時代とは場所が違うてますんや。

よく観光したはる人が、ここで織田信長亡くなったんかぁ、ゆうたはるけど…。

違うんどすなぁ。

それに、焼けてますから。

当時を偲ぶもんは、何もおまへん。

織田信長ゆかりのとこに行きたい方は、大徳寺にお墓がありますし、大徳寺行かはったらよろしおす。

織田信長を祀る建勲神社が船岡山におますけど、こちらは明治に出来た神社どすから、偲ぶもんは…刀くらいどすかなぁ…。

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