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2018-05-14

今宮祭 その3

  1. さて、今宮神社の氏子圏について。

東が堀川通、西は七本松通、南は二条城、北は不明確だがおおむね玄以通で、中心は西陣やととされとります。

地図で確認すると、えらい南北に細長いんどすな。

なんや不自然なような気がして…。

もとからやのうて、意図的に氏子圏を広げはった気がするんどすわ。

神社が儲かるゆう言い方は下世話どすけど、神社が栄えるかどうかは、氏子圏の経済力と、氏子圏以外の信奉者の経済力と数による…。

つまりはどんだけご寄進があるかどうか、ゆうことどすわ。

氏子圏が広い方が、お金は集まりますわな。

今宮祭を支えとったんは、西陣の経済力やとゆうてもええ思います。

さてさて、氏子圏の話をする前に、今宮神社の歴史と今宮祭の歴史もみていきまひょか。

今宮神社が祀られるようになったんは、平安時代以前やそうで、もともとは病や災いから守ってくれはる疫神・須佐之男命(スサノオノミコト)が祀られていたんやそうどす。

今宮祭の起源は、紫野御霊会やとされとりまして、紫野御霊会がどないなもんなんかについては、今宮神社はんのホームページを引用しますと…

一条天皇の御代正暦五年(994)六月、当社地の疫神を二基の神輿に齋いこめて船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪疫退散を祈った。

これが紫野御霊会であり今宮祭の起源である。

この歴史の古い今宮神社と今宮祭どすが、応仁の乱などで一時期はすたれます。

このすたれた神社の復興に一役買ったのが、桂昌院はんこと、八百屋のお玉はんどす。

桂昌院はんゆうのは、徳川三代将軍家光の側室になった人で、出身は八百屋といわれとります。

どこの八百屋かと申しますと、京都西陣、すなわち今宮神社の氏子圏やったんどすな。

せやから、今宮神社のことを別名「玉の輿神社」ともいうんどすわ。

そもそも玉の輿の語源は、この八百屋のお玉はんが将軍に見染められ、江戸まで輿に乗って嫁いだことからや…とゆう俗説もあるほどどす。

今宮神社の氏子圏が広がったのも、このお玉はんの仕業やった、もとい尽力によるものやったようどす。

玉の輿をめざしてはる方は、ぜひ今宮神社に詣でてみてください。

ご利益があると、ええどすなぁ。

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